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龍雲寺(りゅううんじ)は、長野県佐久市岩村田にある曹洞宗の寺院。山号は太田山。本尊は十一面観音。 == 歴史 == 鎌倉時代の1312年(正和元年)大井玄慶を開基、浄学天仲を開山として臨済宗の寺院として建立されたのに始まる。その後兵火にあって衰退していたが、文明年間(1469年 - 1487年)曹洞宗の僧天英祥貞によって復興され、曹洞宗の寺院に改められた。 戦国時代には甲斐国守護の武田氏が信虎期から佐久郡へ進出し、晴信(信玄)期には信濃侵攻を本格化させ天文年間には佐久郡を掌握する。晴信が拡大した領国内の曹洞宗寺院の支配拠点とするため越後から北高全祝を招聘して中興しているが、その時期に関しては竜雲寺の記録である『太田山実録』によれば弘治年間とされているが、竜雲寺所蔵の北高筆由緒書によれば永禄4年(1561年)の川中島の戦いに際した復興と記されたとしており、『太田山実録』には北高の経歴に相違があり作為が想定されていることから後者の永禄年間(1558年 - 1570年)中興であると考えられている(柴辻俊六による)。北高の招聘に際しては、甲斐国内の龍華院(山梨県甲府市上曽根)と永昌院(同山梨市矢坪)の住職が当たっている。 永禄10年には信玄から寺領を寄進されており、川中島の戦いを契機に西上野への侵攻を開始すると竜雲寺へも末寺を寄進している。竜雲寺は分国内曹洞宗派の僧録所となり、僧録司となった北高は元亀元年(1570年)には宗派統制を目的に定められた曹洞宗新法度の制定にも携わっている。 元亀3年(1572年)4月11日には西上作戦に際して僧録司である北高の立場を分国内外へと示すため千人法幢会を実施し〔『戦国遺文武田氏編』1820号〕、正親町天皇から扁額を下賜された。信玄は翌元亀4年(1573年)に西上作戦の途上で死去しているが、竜雲寺は各地に点在する信玄の火葬地であったとする伝承があり、実際に遺骨が出土していることから分骨された可能性も考えられている。これは1931年(昭和6年)5月に庭園から遺骨と遺品の納められた茶釜が出土し、遺骨(信玄遺骨)や短刀や銘文のある袈裟環など遺品の鑑定を巡り論争が起こり、史跡指定を却下した国と住職の間で訴訟が発生する騒動となった。 江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられている。「龍雲寺文書」は『信濃史料』に収録されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「龍雲寺 (佐久市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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